閑話休題

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ネタバレあり映画感想:利休にたずねよ~海老蔵の魂,細部に宿る~

 
多くのレビューでは茶道の心が朝鮮伝来のように描かれていてねつ造であるという感想がほとんど.時代考証に問題があるのは確かだが,そこはけっしてこの映画を評価する際の核になるべき要素ではないと思うのだが……
 映画館を出てもしばらくの間,聞こえる音見える景色がいつもと違った.市川海老蔵の演技がそうさせたに違いない.※後半はネタバレ気味です.あしからず.

所作は雄弁に語る

この映画は安土桃山時代の茶人,千利休の青年期から死までを描いた伝記的映画.利休は一生を通して「美しきもの」を求め続けた.でも「美しいもの」なんてコトバほどファジーなコトバはない.そのファジーさは近頃の女子が連発する「カワイイ〜」とか,就活生の言う「コミュニケーション能力」なんかの比じゃない.どんなに言葉を弄したところで伝わる訳はない.

つまりこの映画は利休が追い続けた,言葉では表せない,「美しいもの」を観客に伝えるという難題に挑まなきゃいけなかったてこと.無茶ぶりですな.

ところがどっこい

この難題は開始10分くらいのワンシーンであっさり解決された.全ては海老蔵の所作が「美しいもの」が何たるかを語ってくれたからだ.

ある満月の夜,家臣がずらり鎮座する中,信長は芸術作品の品定めをしている.遅れて参上した利休は,すと黒い盆を差し出す.何の飾り気もないただの盆だ.「斯様な品を殿にお見せするとは」と嘲笑の笑みを浮かべる家臣を気にする風でもなく,縁側へと歩を進め,障子を開ける.満月が煌煌と輝いている.懐から水筒を取り出し,盆に水を注ぐ.すると信長は笑みを浮かべ,袋一杯の金を利休に与える.何事かと盆を覗き込んだ秀吉が見たのは,兎が描かれた盆の上の水面に揺れる満月だった.
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うーん,こんな粗末な文章では伝わらないですね.このシーンの凄さは.ここはノーカットの長回し海老蔵の一つ一つの所作は洗練されていて無駄がない.指先にまで彼の魂が満ち満ちているように感じられた.

彼の手もとが移るときに生まれる気持ちを無理矢理例えるなら,恋をしたときに感じる胸のときめきかな.一般的には「キュンッ!」って擬態語で例えられるあれですわ.

それほどに彼の動きには神々しさがあった.wikipedia:溝口健二監督のwikipedia:山椒大夫での,安寿(香川京子)の入水シーンぐらいの神々しさだ.

彼の一切の無駄がない身さばき,微細にして丁寧な指の動きは,以降多く映し出される「美しいもの」を感じ取る能力を与えてくれる.だから別に本作の中でたびたび話題になる「美しいもの」とは何か,なんてことを考える必要はなかった.「美しいもの」は海老蔵の所作が全部教えてくれるからだ.
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海老蔵のあたり役

こんな大袈裟なことを感じてしまうほど,海老蔵の演技,とりわけ所作の美しさは図抜けていた.

 正直言って海老蔵さんには大河ドラマでの武蔵役の印象しかなくてあんまりいいイメージがなかった.あれは外れ役立ったんだな.

武蔵は当然無骨なキャラだから大声を出すシーンがいっぱいある.そうすると海老増さんの大袈裟な演技が目立っちゃう.歌舞伎仕込みの発声で「俺を斬れと言ったぁ!」みたいながなりをやられても,大袈裟すぎる.オーバーすぎてワラッちゃうぐらいに.

 僕の兄貴はおやつが食べたくなると,海老蔵の真似して「小腹が空いたぁ!」とかいって母親におやつを作ってもらってたもんな.ま,それはどうでもいいけど.

 でも,この映画の利休は絶対に大声を出したりしない.大して話もしない.そうすると細かな動きのきれいさが生きてくる.いや,恐れ入りました.歌舞伎役者だから所作がきれいなのは当たり前なのかもしれないけど,それでもあそこまでとは.

感覚がおかしくなる

 当たり前だが,本作には茶道のシーンがたくさん出てくる.どれも海老蔵のきれいな所作がそれを逃さない丁寧なカメラワークで映し出される.茶杓で茶の粉を器に入れる所作,茶筅(ちゃせん)で茶を立てる所作,柄杓で器に湯を注ぐ所作,全てが取り立てて映し出すほどでもないはずの動きだが,信じられないほど美しい.

 こんなもんばっか2時間以上見ていたせいか,映画館を出てたあと,なぜか自分の爪をしげしげと眺めてしまった.ふだんはもちろんそんなことはしやしない.でも何か凄くきれいに感じるから不思議だった.海老蔵によってものを見つめる感覚さえも調整されてしまったのかもしれなかった.あんな経験はしたことがない.



※ここからは盛大にネタバレをします.あしからず.

タランティーノ的構成?

閑話休題,この映画は,時系列が入れ替えられている.「パルプフィクション」オマージュという訳ではないが,サンプリング的手法を使っているのは確か.

アバンタイトルは利休切腹の直前のシーン.緑色の壷を差し出せば切腹の命を取り下げる旨を秀吉の家臣に伝えられた利休が

「私がぬかづくのは,美しいもののみにございます」

というところでタイトルバックがどーん.
でもってその後は利休が信長出会う切腹12年前,利休が外人をもてなす切腹10年前,信長が死に秀吉が柴田との戦に勝利する切腹9年前,秀吉が黄金の茶室で天皇をもてなす6年前,大茶会が催される4年前と時系列に物語が進んでいく.そして秀吉の命に逆らった利休が蟄居させられ,冒頭の

「私がぬかづくのは,美しいもののみにございます」

という台詞まできたところで,今度は色町へと舞台がどーん.登場するのは遊郭の遊び人,若き日の利休である.

利休は弟子入りを画策していた茶家のところに拉致されてきた女に遭遇する.女は政争の煽りを受けて拉致されてきた李王朝の人間である.利休は彼女に料理を作る役割を与えられ,次第に彼女に惹かれていく.

 そんなとき利休は,女がどこか別の場所に運ばれることをしる.かれは女を連れて逃げる.結局逃げ果せることは出来ず,鄙びた漁村の廃屋で二人は追手に包囲される.そこで利休は茶を立て女に振る舞う.慰み者になるくらいならば死を,と望んだ女のために毒薬を入れて.女は死ぬ.利休も後をおって死のうと毒薬入りの茶を飲もうとするが,果たせなかった.秀吉が切腹の命と引き換えに渡せと要求した緑色の壷は,いってみれば彼女の形見である.翌日,利休は茶家の武野紹鴎(市川団十郎)に弟子入りし,茶の道へと歩み始める.

 というところでまた切腹前のシーンになる.壷の中に入れていた女の爪を燃やし,最後の茶を立てて飲み干した後,利休は自らの茶室で自刃する.

パルプフィクション効果」あり

うん,中途半端に長くなったけど事程左様に時系列がいじられているので,途中までは,謎が謎のまま宙ぶらりんになっていて,利休の青年期のシーンでその謎の真相が明らかになっていくという構成を取っている訳です.

これは大変ありがたい構成だった.利休の「美」の原点となった漁村の廃屋での出来事を先に知っていたら,以降の利休の茶をそのシーンとかぶせてみてしまい,海老蔵の所作を集中してみることが出来なかっただろう.

もちろん伏線が次々と回収されていくという気持ちよさもあるにはあったしね.

利休にとっての「美しいもの」とは何だったのか

死がすぐそこまできている状況でも利休は

「私がぬかづくのは,美しいもののみにございます」

といってはばからなかった.

そして終生かれがおっかけた「美」は,李王朝の女が教えてくれたものであり,漁村の廃屋で見た風景に凝縮されていたのだろう.
 そこでは今にも散らんとしている女の命がさんさんと輝き,薄汚い炉端や壁までも輝かせていた.女の命(あと一輪のムクゲ)のおかげで狭い空間全てが輝いてる様が彼にとっての究極の「美」だったのだろう.

 かれは茶道を通してそこで見た美に浸りたかった.だから狭い茶室に地味な茶碗というセットを選んだ.

結局わかるわけない

 でも,そんなもんめちゃめちゃ特殊な利休の個人的な感覚に基づいた美しさだから,僕みたいに勝手な解釈つけて上辺だけ分かった振りをすることは出来ても,彼の感じている感覚までは共有できない.ましてや「今度誰殺そっかなー」みたいなことばっか考えてる戦国時代の大名には伝わるわけない.

 にもかかわらず,信長・秀吉に重宝されちゃったってとこが,かれの不運だったのかもしれません.

P.S

もう4ヶ月早く,ムクゲのさく季節に公開してほしかった(笑)