閑話休題

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ネタバレなし映画感想:ローマでアモーレ−うつに対する一つの対処法−その2


前回が驚くほど冗長になったので,その2です.http://castanophilia.hatenadiary.com/entry/2013/12/02/130301

幸せは「今ここにあるもの」のなかにある

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 ウッディアレンの映画は「人生は虚しい」という身もふたもない観念を公衆の面前に晒すものだ.しかしこと近年の作品に関してはそういった「諦観」で終わっていないところがすごいと思っている.

 不全感を持ち幸せを求める人間の「幸せになるにはどうすればいい?」という質問に対する彼の回答は「あなたは既に幸せになるための要素を持っている」というものだと思う.何も大げさな社会的成功や,不釣り合いな恋をしなくたっていい.
天気のよい昼下がりにあてどもなく町や公園を歩いてみれば,ちょっとした発見や新しい出会いがあるはずだ.
あるいは不満を持っている今の生活も,見返してみれば自分にぴったりフィットしていて,何も新しい環境を求める必要などないほど快適なものになっているはずだ.
それでいいじゃないか.世間的な賞賛はけっして幸せをもたらさないが,家族と,恋人と過ごす日々は必ず満足をもたらす.近年のウッディアレン映画は諦観を超えた究極の幸福論を示しているように見える.かなり大げさになってきたのでこの辺で打ち止めにするが,彼が喜劇という形態で伝えたいのはそういう人生に対する基本的な態度ではないか.

うつに対する究極的な回答

 なんでこんな諦観を持ち,その世界観で多くの映画を生み出せるかというと,ズバリ彼自身が鬱であるからだろう.かく言う自分自身もうつ的傾向は小さい頃から持っているので,ウッディアレンの映画を見るとなんか刺さってしまう.
 「何をやっても満足できない」という不全感は,もしかしたら世の中の人全てに当てはまる訳ではないのかもしれない.でもうつ傾向をもつ人には共通する傾向だろう.楽しいことをやっていてもいつだって虚しさが顔をのぞかせる.「虚しくない,虚しくない,楽しいんだ」と言い聞かせてみたところで,より強く虚しさが意識されてしまうのが関の山だ.だから何をやっても「こんなことやってみても無駄だ」「これはやるべきことじゃない」と思ってしまう.
 そんなときはウッディアレンよろしく「人生は虚しいんだ」と認めてしまうのがいいんだろう.そうと分かれば肩肘張ってみてもしょうがない.楽しいことを楽しむだけ.虚しさが襲ってきても「そりゃそうだろ」と右から左に受け流せばいい.
 もちろん言うは易し行うは難し.簡単に気持ちを変えることは出来ない.でもウッディ・アレン映画はその助けにはなるのではないか.