閑話休題

ブログの効能と言わば何ぞ其れ日々の由なし事の記帳に限らんや

映画感想:山椒大夫

基本情報

あらすじ

平安朝の末期、越後の浜辺を子供連れの旅人が通りかかった。七年前、農民の窮乏を救うため鎮守府将軍に楯をつき、筑紫へ左遷された平正氏の妻玉木、その子厨子王と安寿の幼い兄妹、女中姥竹の四人である。その頃越後に横行していた人買は、言葉巧みに子供二人を母や姥竹と別の舟に乗せて引離した。姥竹は身を投げて死に母は佐渡へ売られ、子供二人は丹後の大尽山椒大夫のもとに奴隷として売られた。兄は柴刈、妹は汐汲みと苛酷な労働と残酷な私刑に苦しみながら十年の日が流れた。大夫の息子太郎は父の所業を悲んで姿を消した。佐渡から売られて来た小萩の口すさんだ歌に厨子王と安寿の名が呼ばれているのを耳にして、兄妹は母の消息を知った。

安寿は厨子王に逃亡を勧め、自分は迫手を食止めるため後に残った。首尾よく兄を逃がした上で安寿は池に身を投げた。厨子王は中山国分寺にかくれ、寺僧の好意で追手の目をくらましたが、この寺僧こそは十年前姿を消した太郎であった。かくして都へ出た厨子王は関白師実の館へ直訴し、一度は捕われて投獄されたが、取調べの結果、彼が正氏の嫡子である事が分った。然し正氏はすでに配所で故人になっていた。師実は厨子王を丹後の国守に任じた。彼は着任すると、直ちに人身売買を禁じ、右大臣の私領たる大夫の財産を没収した。そして師実に辞表を提出して佐渡へ渡り、「厨子王恋しや」の歌を頼りに、落ちぶれた母親と涙の対面をした。

感想

この映画では,二つの人物群が対比的に描かれている.一つは山椒大夫に象徴されるような人を目的としか捉えない人たちでありもう一つは逗子王や安寿のように人を目的ととらえず、それ自体に価値があると評価する人たちである.
時代は下っても「効率」と「公正」の問題を考えるとこれは大変重要な示唆を持つ。我々でも山椒大夫のような「効率」のみを物差しにした精神性で人と接していることは少なくない。むしろそれが人の本質的な物なのだとすれば、「人のモノ化」は理性に訴えてもどうにかなるものではなく、「公正」を実現させるためには,「制度」に従って人々を制御していくしかないのだろうという後ろ暗い気持ちにさせられてしまった。

 作品の終盤では安寿が入水するシーンが出てくる.これまで見た映画の中でも屈指の名シーンだ。
 シーンは遠くから安寿を老婆が見つめる視点で始まる。安寿は一礼して靴を脱ぎ、水に向かって一歩、また一歩と歩を進める。画面周縁部の植生がもたらす黒色に対する池と安寿の白色がコントラストをなしていて美しい。安寿が水の中を歩いて進むごとに波紋が生じて綺麗な同心円を描いて広がっていく。全くうろたえる様子はない。入水する瞬間は描かれていないが、完全に水に沈んだ後、ブクブクと泡が出て、波紋が消える。
悲惨な奴婢の描写が続く本作全体とのコントラストもくっきりとしていて、神々しいまでの美しさに至っている。ここだけでも映画館で見た価値があるというものだ。

なお本作は原作の残滓を引きずって、現代から見た古代描写をしていると言う嫌いがある。史実に忠実になるならばここまで残酷さを前面に出した荘園経営をしていたかは疑わしいのではないか.
ある時代を教科書的歴史法則に当てはめるような歴史観は今でこそ時代錯誤と切り捨てられるが,60年近く前においては,正当性を持って語られたものだったのか,等と思った.