閑話休題

ブログの効能と言わば何ぞ其れ日々の由なし事の記帳に限らんや

藤沢周平『蝉しぐれ』の感想

基本情報

藤沢周平(1991)『蝉しぐれ』.
文春文庫;480頁,700円.

あらすじ

東北地方の小藩,海坂藩城下普請組に勤める助佐衛門の養子牧文四郎は,豪快な性格の小和田逸平,学才に長けた島崎与之助らの友人とともに文武に励んでいた.隣家に住むおふくは文士郎よりも2~3才若く,齢は12.しかし徐々に大人びてくるおふくの様子に,文四郎は名状し難い思慕の年を抱いていたのだった.

平穏無事な日々が急転するのは文四郎が19の時である.父親が切腹を命じられる.藩の家督相続をめぐる家老の横山と,同じく家老の里村の派閥争いに巻き込まれ,横山派であった助左衛門は,主導権を握った里村派によって処分されたのであった.この事件を境に,文四郎の境涯は一変する.藩は牧家を取り潰しにこそしなかったものの,捨扶持を与えて飼い殺しにする.周囲の人間は,罪人の父を持つ人間としてよそよそしい態度を取るようになる.親友の与之助は学問のために江戸へ行き,逸平は城勤めに忙しい.加えて江戸に向かったおふくには藩主の手が付いたとの報も入る.孤独に打ち拉がれささくれ立った彼の心を慰めたのは,剣術であった.文四郎は毎日のように道場で剣術に励んだ.藩内三大道場と呼ばれる石栗道場でも屈指の腕前となった文四郎の評判は,藩重鎮が集う奉納稽古での活躍によって,広く知られるところとなった.
数年後,文四郎は里村のもとに呼ばれる.言い渡されたのは家禄を旧に復す,というものであった.しかしこの措置は再び力を取りもどしつつあった横山派に対する妥協案でしかないことを文四郎は感じる.それでも家は落ち着きを取り戻し,妻ももらい,仕事に慣れるに従い,再び平穏無事な生活がはじまったように思えた.
そんなとき,文四郎は再び里村に呼び出される.藩主の子を産んだおふくを拉致せよとの命であった.子どもの頃から世話をし,恋心を抱いてきたおふくにたいしてそんな仕打ちが出来るはずがない,くわえてここで里村派につけば,横山派について殉死した父を裏切ることになる.しかしこの仕事を断れば,自分や牧家の破滅は必至である.絶体絶命の状態に追い込まれた文四郎は,決死の覚悟でおふくの暮らす屋敷に突入,里村の刺客を葬り,横山派の屋敷までおふくを送ったのであった.文四郎の活躍でおふくは一命を取り留め,藩は横山派が実権を握ることとなる.
 数十年後,藩役人として郷方回りに従事していた文四郎のもとに,事件以来一切連絡のなかったおふくから突如連絡が届く.出家するので最後に一目会いたい,というのであった.果たして二人は再会を果たす.互いが互いを思いながらもついぞ結ばれることのなかった二人.「文四郎さんの御子が私の子で,私の子供が文四郎さんの御子であるような道はなかったのでしょうか」.さめざめと語るおふくの声の後ろには,蝉時雨が響き渡っていた.

感想

藤沢周平の良さが出ている傑作だと思う.江戸の硬派な武士が主人公.藩重鎮の権力闘争に人生を翻弄されながらも,一途に愚直に自分の大切な物を守ろうとする.その時にいつも身を助けるのは剣なのである.
本作の解説でも言及されていたが,本作は全編を通して青春の甘酸っぱさが背景を覆っている.描かれているのは青春が終わり大人になっていく主人公の姿だが,彼がどんな苦境でも少年時代の友情や淡い恋心を忘れずに困難に立ち向かっていく姿には,どうしたって胸を打たれる.
海坂藩の鄙びた田園風景の描写は,江戸を舞台にした藤沢作品には見られない魅力である.遠き山に日が落ちていく中城下を歩く様子,汗の吹き出るような暑さの中で主人公が郷方回りをする村々の様子,海にほど近い温泉街の風景,どれも過度に飾り立てることなく淡々と下筆致で描写されているが,その情景ははっきりと目に浮かび,言い知れない感慨を催す.
時間が経ったらまた読み直してみたい作品である.